第7号 : 「瀬戸内の町はいま」岡山県玉野市(上)

鳥取環境大学三年生 尾上功哲(おのうえ・こうてつ)

岡山県南部に瀬戸内海に面して、玉野市という町がある。私は生まれてから高校三年までの一八年間をここで過ごした。そして鳥取市に移り住み、今年で三年目、いまでは玉野市へは里帰りをする立場となった。大学のゼミで地域のことを学んでいるため、ふるさと玉野のかかえる課題などが、よく見えてくるようになった。それについて書かせていただく。
まず、玉野市の現在をかんたんに紹介したい。
玉野市には、渋川海岸や王子ヶ岳をはじめとする瀬戸内海を一望することのできる観光名所が数多く存在する。宇野港からは高松市や小豆島に渡るフェリーが出ており、市内の料理店では市魚であるメバルなどの瀬戸内海産魚介料理が提供されている。港近くには大きな造船所があり、造船業も盛んで、多くの地元の若者が働いている。
港付近には宇野駅や、宇高連絡船とともに長い歴史を歩んできた商店街がある。宇高連絡船の開業と同時にできた宇野駅は、二〇一〇年に一〇〇周年を迎えた。商店街は駅から西へ一二〇m、そこから南へ六〇mほどのL字型になっていて、私は高校時代、部活帰りに、しばしば商店街にある精肉店で一二〇円の大きなチキンカツを買って食べた。
私が生まれる前の玉野市については、よくわからない。両親は「駅も、バスなどの公共交通機関も、お店もいまほどにぎやかではなかった。しかし、宇野港は、四国へ行く唯一の方法である宇高フェリーがさかんに運航していたため、四国への玄関口あるいは本州の玄関口として栄えていた」と教えてくれた。しかし、平成に入り、岡山と香川を結ぶ瀬戸大橋の開通により、それまで四国への主な移動手段であったフェリーに、強敵が現れてしまった。フェリー会社は減便を余儀なくされ、閉鎖も後を絶たなかった。開通による痛手はフェリーだけではない。港近くの商店街は、フェリー利用客の激減で、客のほとんどが地元の人々になり、シャッターを下ろした店が多く見られるようになった。
そんな中、商店街のアーケードが取り除かれた。「太陽の光を活かした、明るくにぎわいのある商店街をめざして改装した。新しい街路灯やカラーの舗装などが施され、それが現在の商店街の目印となっている」と地元の方は言う。しかし、私は、この生まれ変わった商店街を見て、具体的にどこをどのように変化させたかったのかがあまりよくわからなかった。アーケードを取り除いたことで、見た目や印象は太陽の光が商店街内に注がれ、かなり明るくなった。でも、人通りは取り除く前となんら変わりなく、閑散としており、どことなく寂しさを感じた。
私は大学生になってから月に一度、自家用車で帰省している。この三年間で玉野市はおおいに変化した。港付近に商業施設や温泉施設などがつぎつぎと建てられた。その中でも、昨年四月にオープンした瀬戸内温泉「たまの湯」という施設では、潮風を感じる露天風呂、旬の瀬戸内料理、レンタサイクルによる玉野市内の観光といったおもてなしで、お客を魅了している。昨年はまた「瀬戸内国際芸術祭」も開かれ、多くの訪問客で商店街や港付近がおおいに盛りあがった。
私の玉野市に対する気持ちも、三年間で大きく変化した。玉野市は観光地としての町ではなく、地元の人々に愛される住みやすい町に変化してきていると感じられたからだ。私にとって、それはうれしいことであり、ますます帰りたくなるふるさととなったのだ。
玉野市には、夏に渋川海岸に海水浴に行く人、競輪場を訪れる人、そしてお隣の芸術の島「直島」に行く人ぐらいしか、外から人は来ない。いまや通過するだけの町である。しかも通過する車両も少なくなっている。フェリーを利用する以外、立ち寄るどころか通過する理由すらないのである。いまの玉野市には、「観光地」として県外からの訪問者の足を止めるものはない。 そんな中、「たまの湯」のオープンや商店街のリニューアルなど、正直言って何がしたかったのかよくわからない。どちらも市外からの訪問客をターゲットにしたものというより、地元の方に利用してもらう意図なのではないか――そう私は考えている。
これからの玉野市はどうなっていくのだろうか? 若者たちは職を求めて、県外あるいは県内の岡山市や倉敷市などへ出て行ってしまう。そうなると、玉野市全体が高齢者層で形成されてしまい、ますます若者が住みにくい町というイメージになってしまう。そこで、玉野市全体の人口を増やし、若者を呼び戻すことが必要不可欠であると考える。その手段について、つぎの号で実際にどんな取り組みがなされているのかも含めて考えてみたい。

鞆まちづくり工房ニューズレター27号(2014.7.20)より転載

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