第8号:ドイツの古い小さな街で.断章(北崎)

ドイツの古い小さな街で-風物と人、その断章(北崎)

2014年の夏、久しぶりにドイツに行く機会があった。主な目的は社会的企業についての一連の国際フォーラムに出席するためであった。

訪ねたのは、ドイツの中西部、オランダに近いミュンスターという人口20万人ほどの小振りな古い街であった。

出かける前に、ドイツ文学者 小塩節さんのエッセイ集(「木々を渡る風」)を読んだためか、その街の木々と自然の様子が気になっていた。小塩さんは樹木に対する関心が高く、その知識も該博である。知識と関心の高さだけではない。自然、とりわけ樹木、草花あるいは森や山岳に対する澄んだ詩情がエッセイの端々に通奏低音のように漂っている。確かにこの地には、小塩さんが愛でてやまない自然の魅力が街中に溢れている。
一方、湿潤な日本で夏を過ごしている私達には、やや困ることもある。30年近く前、ハイデルべルクに3週間滞在したことがあった。ハイデルべルクはドイツ南部に位置する。6月後半であったか。それなりに暑くホテルには当然エアコンがあると思い込んでいた。しかし何もない。ホテルによると「本当に暑いのは1年のうち2週間ほどで、そのためにエアコンを備えることはしていない」という。どうやら不便さを合理的な割り切りで乗り切るということらしい。果たして、今回も安宿だったせいか、エアコンなしのホテルであった。到着当日の最高気温は32度、湿気はないにしても、夜もまだ暑気が部屋に立ち込めている。日本では古道具屋か骨董品店にでも行かないとお目にかかれない、古めかしい小型扇風機が置いてある。そんな訳で、シャワーも余り熱くすると後が大変である。勢いシャワーの温度も出来るだけ低目で使う。これも無駄なエネルギーを使わない、使わせない!?「不便の合理」と云うべきなのかも知れない。

7月の下旬の朝、紺碧の空が広がっている。9時過ぎにホテルを出て会議場に向かう。
街の周囲を環状するプロムナードをゆっくり歩く。丈の高い樹木が覆うプロムナードをジョギングする若い男女、自転車を漕ぐ人、ゆっくりと散策する高齢者。三者三様の路が幅7-8mほどのプロムナードに設けられている。なんと贅沢なことか。「不便の合理」があるなら、「合理的な快適さ」もどこかに用意されているはずだと期待していたが、しっかり用意されていた。
午後5時過ぎ、再びプロムナードを通りホテルに戻るとき、小川のせせらぎと緑と木洩れ陽が織りなす、見事な「夏の黄金の午後」に包まれた。ベンチに座り、水面に映る樹々と傾きかけた柔らかい陽を眺めていると、空腹を満たしたい欲よりも、その場にとどまりたい気分が勝る。小塩さんのエッセイに触発されたのか、ふと次のような感慨がよぎった。

かくまでも みどり愛でたる衆なれば 魂の棲み処は森にありしか

ところで、ドイツの人は謹厳実直な表情の方が結構多いが、まったくもって人なっこく親切で、ある種独特の温かさがある。その温かさは、旅行者・外国人に対する外交的な演出とは思えない。偶々一度か二度そんな場面に遭遇したら、いい人に出会ってよかったということで終わるであろう。しかし、そうした場面に何度も出会い、どうも当たり外れがなさそうだとなると、それは彼らの心のあり様、心の習慣性を示しているとも云えるのではなかろうか。そんな気がする。30年前のハイデルベルクでの細かい記憶を訪ねても、同様の印象に行きつく。
繁華街で郵便配達の人に道を訊いた。言葉のせいもあってか、30mほど歩いて「さて・・・うーん?」と立ち止まっていたら、件の郵便の方が追いかけてきて、再び教えてくれた。昨日も中年の夫婦から同じ接遇を受けた。その前は、ドラッグストアで若い女性から懇切丁寧な導きを頂いた。この種の温かみとか親切は、ゲマインシャフト(共同体)的な精神に根差すなどと云うと、「単純過ぎる」との誹りを受けようか。私には、そんな些細なことに、彼らの律儀さや利他的姿勢、物事をキッチリやり遂げる伝統精神が内在しているように感じるのである。
そんなこともあってか、我われ日本人には、彼らの気質の一面がとてもわかり易く、なんとなく彼らへの親和性を覚えやすいように感じる。こう感じるのは、日本人だけではないようである。感じ方、受け止め方は様々であろうが、他の外国人にもドイツ人の好感度は大変高い。少し前のイギリスBBCの調査では、外国人旅行者の好感度はドイツが断然一番であった。アメリカ・イギリスはあまり高順位ではなく、アングロサクソン系はやや分が悪いという結果であった。
近々、今度は厳寒のドイツを旅する予定である。さて、どんな合理性とホスピタリティにお目にかかれるか、寒中の暖を得ることなど、興味は尽きない。

学生座談会